同時体験の終焉
ケネディ暗殺と“同時化”の威力
1963年11月22日、ダラスで銃声が鳴った瞬間、テレビは出来事を国民に同時に体験させる装置として地位を固めた。
画面の向こうで震えるキャスターの声色、現地のざわめき、黒い喪章――それらは時差を越えて日本の茶の間にも流れ込み、受け手の感情と理解を一つの方向へ束ねた。
新聞は翌朝の紙面で意味づけを与え、テレビはその場の空気を生中継する。二つのメディアが段取りを分担し、「共通の現実」を構築していた時代だ。
普及の頂から、権威の揺らぎへ
高度経済成長を背景に白黒テレビは家電の王様となり、家庭の中心に鎮座した。
政治報道は“家庭の儀式”の一部で、視聴はほぼ同時刻・同番組に集中した。
だが90年代に入ると多チャンネル化と情報バラエティ化が進み、2000年代には検索、掲示板、ブログがニュースの別口をつくる。
編集の切り取りや見出しの演出に対して視聴者のメタ視点が育ち、「どの立場の語りか」が問われ始める。
テレビ・新聞は依然として大きな影響力を保ちながらも、唯一の入り口ではなくなった。
多様化と“個人的現実”
SNSと動画配信は、一次資料、専門家の長文、当事者のライブを“編集される前”の形で公共圏に押し出した。
受け手は用途やタイミングに合わせて窓を選び、時間を自分の都合で切り取る。
こうして出来事は同時に体験されるのではなく、各自のタイムラインで再生されるものとなり、現実は“共同の物語”から“個人的な物語の集合”へと姿を変えた。
アルゴリズムは過去の関心を学習し、興味を刺激する断片を優先的に提示する。
快・不快の揺れ幅が大きいものほど可視化され、同じ事実でも異なる角度が“正しさ”として強化される。
左派マスメディア不信と右派の伸長
地上波や大手紙の“前提の置き方”に違和感を覚える層は、情報の母港をテレビから自分のフィードへ移した。
そこでは、右派的価値観を明確に語る政治家が、会見や番組の編集を介さずに直接語りかける。
短尺の切り抜き動画、Xの投稿機能、ライブ配信、地方遊説のインスタ報告――多数の小さな共感点を継続的に投下し、地上戦(対面・電話・地域ネットワーク)と掛け合わせる。
既存メディアへの不信が強いほど、「忖度しない」態度そのものがシグナルとして評価され、SNS上の支持コミュニティはある臨界を越えた瞬間に現実政治へと波及する。
「共通の現実」から「多数の共感」へ
テレビが国民の時間を同期させた時代は終わり、マスメディアの威信は視聴習慣の分散と同時に痩せ細った。
いまや争点は、番組編成ではなくフィードの設計で争われる。
ここで生起するのは、事実関係の審判よりも、認知を先取した側が勝つという情報戦のロジックだ。
切り取り、比喩、流行語、ハッシュタグ、タイミング――どれもが弾薬になる。
必要なのは、「後追いの解説」ではなく、ポジショントークを補強する“都合の良いエビデンス”と、都合の悪い情報を素早く視界から消す配信設計だ。
民主主義をも最適化するのか
アルゴリズムに最適化された選挙は、効率よく支持を集め、限られた資源で最大の波及を生む。
だが、それは社会を「クリックしやすい民意」へ整形する技術でもある。
私たちは、最適化された“説得”の末に、最適化された“合意”に至る。
ケネディの時代、テレビは皆を同じ画面へ招いた。
いま、画面は一人ひとりの手の中にあり、私たちはそれぞれの時間で政治を受け取る。
アルゴリズムを最適化する選挙は、果たして民主主義そのものも最適化するのか。
その答えを決めるのは、結局のところアルゴリズムではなく、どの窓を開き、どの反証に耳を澄ませるかという、私たちにほかならない。